オフィス宮崎が最初に手がけたビッグなプロジェクトのひとつに『ペリー艦隊日本遠征記』全3巻制作があります。メインとなる第1巻のタイトルは、“Narrative of the Expedition an American Squadron to China Sea and Japan, in the year of 1852, 53 and 1854, Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy, Compiled from the Original Notes and Journals of Commodore Perry and his Officers, at his Request, and Under his Supervisions, by Francis L. Hawks, D.D. L.L.D. with Numerous Illustrations.” と、おそろしく長いのですが、何が書いてあるか全部説明してくれています。ざっと訳すと、「合衆国海軍のペリー提督が指揮して、1852、53、54年に行った(東・南)シナ海と日本を探検したときの物語で、ペリー提督がフランシス・L・ホークス氏にお願いして、自分と部下のメモと日記から編纂してもらい、ペリー提督が監修しました。図版もいっぱいあります」みたいな内容です。当時の日本を外から伝える貴重な資料ですが、読み物としても大変面白いのです。これを読むと、アメリカの見方も江戸幕府の評価も変わります。
160年以上前に出版された原本はA4サイズで、1巻が約530ページ、2巻約500ページ+海図+数枚、3巻700ページと、3巻セットを一人で持ち上げるのも大変なボリュームです。
ひょんなことからこのお仕事にめぐり合い、一時は作業半ばでオフィスもろとも沈没するかという局面もありましたが、なんとか乗り越え、栄光ゼミナールの方々の支えによって、この貴重な書物のレプリカを日本語で発表することができたのです。それが1997年10月のことでした。160年以上の年月を経た原本の表紙の色は焼け、エンボスも潰れていましたが、中の図版(リトグラフ)は美しく、特に博物誌が中心の2巻は、カラフルな魚や鳥の絵のインクが少しも色あせることなく保たれ、そのまま再現することができました。出版時には、マンスフィール元米国大使の推薦までいただき、各方面から評価をいただいたオフィス宮崎を代表する仕事でした。
1990年代はちょうどDTPソフトが登場し、Macが華やかに活躍しはじめた時代です。オフィス宮崎は、若いスタッフの趣味で、ずいぶん前からコンピューターを使っていた、というより、はっきり言って「遊んでいた」のですが、そのおかげで、某研究機関の英文学術誌の編集・レイアウトをお願いされたときには、二つ返事で引き受けられましたし、『ペリー』も、印刷以外、正確にはフィルムにする直前まで、すべてオフィス宮崎の小さなオフィスでできることになったのです。
原本と同じような版型で、原文とほぼ同じ分量の訳文が収まるようにレイアウトし、大枚はたいて高級なフォントとそれが印刷できるプリンターを買い、慣れていないから時間もかかるし、印刷して校正するから紙も大量に無駄にしながら最終データまでこぎつけたわけです。
今のようにPDFデータを印刷所に送信すれば、本になって出てくる時代ではありません。まずはデータを印画紙というものに印刷して、それをフィルムにするのです。印画紙で出力してくれるお店までデータを持って行き、出力された印画紙をもらいに行くのです。今ならVanfuかKinkosがありますが、当時はそれだけをやってくれたお店が、たまたま六本木の盛り場にあって、1日に何度も、夜はほろ酔い客が行き交う六本木とそのときオフィスがあった奥沢を往復しました。文字を修正するのも印画紙を切り貼りしたりして……1,000ページ以上もある本です。今思い出しても気が遠くなります。そして印刷所さんの素晴らしい技術のおかげで、ケース付きの10キロもあるセットが完成したというわけです。
ちなみに、当時よく働いてくれたマシーンはPower Macで、ソフトはPagemakerでした。
『ペリー艦隊日本遠征記』の原本は、当時のアメリカでもベストセラーと言えるほど、たくさん刷られたようです。今では骨董品と同じくコレクターズ・アイテムになっています。第1巻は読み物としても大変面白いのですが、本邦初翻訳の第2巻は博物誌が中心で、美しいカラーのスケッチがリトグラフでたくさん収録されています。日本の植物、鳥類、魚類の調査記録が掲載され、とくにボニン諸島(現在の小笠原諸島)の動植物については、貴重な資料となっています。山階鳥類研究所では、今回の第2巻の翻訳で新たな発見があったとの報告をうけています。さらに魚類については、スケッチがもう少し細かかったら学術的にもっと価値があったと言われてはいるものの、色はとても美しく、インクも劣化していないと印刷所で言われました。
一つ、残念なのが、ペリー提督自身も「博物学に関する報告」の序文のなかでぼやいていますが、植物のページが不十分だったことです。農学者モロウ博士をはじめとする遠征隊に同行した科学者たちが採取した標本やスケッチがあり、実は新しい科や属の発見がたくさんあったのです。ところが、国務省がその貴重な調査資料を握ってしまい、第2巻の出版に間に合わなかったのです。「このあとに同じ地域を調査したフランス、イギリスが同様の資料を発表し、第一発見者であるわれわれが、わが政府から認められるべき栄誉と優先権は彼らに奪われてしまうでしょう」とワシントンに訴えている手紙も収録されています。今も昔も学者の世界は同じようなことになっているんですね。冒頭に収録されていますが、提督自身もそのことで国務省に嫌みたっぷりの手紙をかいていているのがおかしいところ。
第2巻のもうひとつの魅力は海図です。東アジアでは最古のものと聞いています。艦隊は北上して北海道まで室蘭港まで調査しました。ちなみに室蘭港は英語でEndermo Harbordeと呼ばれ、北海道はIsland of Jesso、東京湾はBay of Yedoでした。当時は鉛の玉を落として海底の深さを測ったようです。これらの地図は、もともとは第2巻の巻末に綴じ込みになっていたのですが、綴じをいったん解体してばらし、14点の地図にしました。日本語版は地図を別巻としたので、全3巻プラス海図の4つで1セットになりました。驚くべきは、綴じ込みをばらした地図をまた元通りに復元してくれた日本の製本技術です。当時から、もうすぐそのような職人はいなくなるだろうと悲しそうに語る印刷所の人が思い出されます。
第3巻は、遠征隊に同行した合衆国海軍従軍牧師ジョージ・ジョーンズが行った気の遠くなるような天体の観測記録です。肉眼で見ることができる黄道光(当時はまだその正体がはっきりしていなかった)の変化を1853年の4月2日から1855年の4月22日までほぼ毎日観測しました。さらには月の黄道光と思われるものを観測し、1680年代のカッシーニの観測結果と比較したりしています。いずれにしても砂を嚙むような毎日の作業に脱帽です。
高名な歴史学者である加藤祐三先生の序文や、元アメリカ大使のお言葉までいただき、『ペリー艦隊日本遠征記』全3巻プラス海図は、1997年10月に華々しくリリースされました。化粧箱入りのセットは高額だったにもかかわらず、何百セットも売れたと聞いています。
もともと『ペリー艦隊日本遠征記』の第1巻は、抄訳ですが同じくらいの大きな版型で1912年に出版されていました。それを岩波書店が4冊の文庫本にして出しているのですが、旧仮名遣いで読みにくいことこの上ないのです。そこでゼロから翻訳し直おす私たちは、読みやすい日本語を目指すことにしました。ただ、せっかく「高校生でも読める日本語」に翻訳し、平井吉夫さんというベテランの編集者が読みやすく編集してくれたにもかかわらず、ゴージャスなレプリカ全3巻プラス地図のセットはあまりに高額だったため、津々浦々の高校の図書室には届きませんでした。
そこで、私たちはせめて第1巻だけでももう少し買いやすい価格で出せないかと考え、万来舎という奇特な出版社さんのお力を借りて、半分自腹で普及版を作りました。加藤先生には冒頭に新たに解説文を書いていただき、生粋の浜っ子である柳嶋覚子さんというベテラン編集者が、さらに読みやすく編集を加えました。この普及版のもう一つの目玉は、元横浜開港記念館研究員の伊藤久子先生に書いていただいた「『ペリー艦隊日本遠征記』の周辺」です。遠征にまつわるエピソードやペリー以外の日本遠征記の紹介、艦船の情報や黒船人物録は、普及版ならではのお楽しみです。
なお、この普及版は2014年には角川ソフィア文庫『ペリー提督日本遠征記』となり、図版は一部割愛されていますが、さらに買いやすいお値段になっています。
サイズはどんどん小さくなっていきましたが、時を経て2回も生まれ変わってくれた『ペリー艦隊日本遠征記』は、オフィス宮崎にとって思い出のたくさん詰まった宝箱のようなものです。翻訳という仕事を生業にしている私たちにとって、どういった仕事に出会うか、そこには偶然といってもいいような側面があります。幕末から今日まで切っても切れない日米の関係のはじまりがどんなものだったのか、アメリカ側から知るというチャンスが与えられたことに感謝したいです。
著者 M・C・ペリー
翻訳 オフィス宮崎
言語 英語 → 日本語
判型 単行本
出版社 万来舎
発売日 2009.4